第1章 橘結衣は死んだ
京清市。
橘家の別荘は、夜でも昼のように明るかった。
人が行き交い、祝福の声が途切れない。
「いやあ、おめでとうございますよ橘社長。実の娘さんを取り戻すなんて、簡単じゃありませんからね!」
「国政、めでたい話だな」
橘国政は笑みを貼りつけ、口を開こうとした――その瞬間。
ガシャン――!
耳をつんざくような音が、パーティー会場を裂いた。
シャンパンタワーの横に、ひとりの少女が立っている。痩せた手には血管が浮き、引きちぎった真紅のテーブルクロスをぎゅっと握りしめていた。
山のように積まれたグラスが、押し倒されたドミノのように次々と床へ落ち、砕け散る。
「橘結衣!」橘国政の顔色が一瞬で青ざめた。「何をしている!」
客たちは「橘結衣」という名を聞くや、ひそひそと囁き始める。
「聞いた? 橘結衣って、実は4年前にもう見つかってたんだって。でも橘家は橘晴美が気まずくなるのが嫌で、ずっと隠してたらしい。外には『使用人の子』ってことにして」
「橘グループが潰れかけてるからだろ。南川家と縁談を繋ぎたくて、今さら身分を表に出すんだ」
「かわいそう……」
「何がかわいそうだよ。橘結衣を嫁に出さないなら、橘晴美を出すのか? 育てた年数が違うだろ。20年以上一緒にいた橘晴美のほうが情が深いに決まってる」
「それに気づかなかった? あの子、左目……見えてないよ」
「外で不良と付き合って、騙されて身体まで……そのうえ角膜まで差し出したって話」
「そんな女、橘家の血が流れてても、結局は表に出せない存在だよ」
「……」
橘結衣は、ガラス片だらけの床に立ち、蔑みと嫌悪の視線を真正面から受け止めた。
「皆さん、橘家が実の娘を取り戻したお祝いで来たんですよね?」
真紅のクロスを床へ叩きつける。瞳の奥に宿る傲りと反抗は、4年前にこの家へ来た時と何ひとつ変わらない。
「橘家の娘なんて、なりたい奴がなればいい。私はいらない!」
橘国政の目つきが変わる。
「橘結衣! 正気か!」
「正気?」橘結衣は、可笑しくてたまらないとでも言うように、いきなり笑い出した。
だが、笑い声が途切れるにつれ、眼差しには虚ろさと絶望が広がっていく。
「狂ってるのは、あんたたちのほうよ」
「4年! 私を4年も隠して、身分ひとつ与えなかったくせに! 会社が潰れそうになったら、今さら私を思い出すの? 南川さんは今年55。私より36も上。前の奥さんが亡くなったのは一か月前――それで南川家で死んだ女は、もう4人目だっていうのに……」
「これ、お披露目パーティー? それとも私の処刑場?」
橘礼子は、橘結衣の狂気じみた様子を見て顔を沈ませ、安藤のそばへ寄ると声を落として命じた。
「引きずってでも連れて行きなさい」
安藤がすぐに橘結衣へ手を伸ばす。
「行かない!」橘結衣は安藤を乱暴に突き飛ばし、橘礼子と橘国政たちを睨みつけて叫んだ。
「この縁談、受けない!」
その言葉に、黒いスーツの橘家長男・橘翔太が僅かに表情を変えた。シャンパンを手に、片手をポケットへ入れたまま橘結衣の前へ歩み寄る。冷ややかな瞳が、彼女を貫く。
「受けない? どういう意味だ。お前に拒否権はない」
次男の橘元太が眉を寄せる。
「お前が嫁に行けば、会社は今回の危機を越えられる」
三男の橘界人も口元を歪めた。
「南川家に嫁げるのは幸せだろ。身の程を知れ」
橘結衣は、目の前に並ぶ“兄”たちを見つめ、指先が震えた。
どうして、誰も彼女の痛みを見ようとしない。
彼女が何をしたというのか。
そこへ、橘晴美が足早に近づき、橘結衣の手を握った。心配そうに覗き込み、健気な声を作る。
「姉ちゃん、南川家に嫁ぎたくないなら、私が嫁ぐ。だから、もうやめよう? 私が代わりに行くから」
義を掲げる“英雄”のように、崩れかけた天を支える役を買って出る。
――いわゆる、退いて攻める。
案の定、その言葉が落ちた瞬間、周囲は騒ぎ出した。
「橘晴美は分別のあるいい子だ!」
「橘結衣、橘晴美を見習えよ」
「……」
橘結衣は無表情で橘晴美を見た。
もし、角膜を橘晴美に提供していなければ。
もし、手術に関わった医師と結託し“事故”を作られていなければ。
彼女は目が見えなくなることなどなかった。
もし、橘晴美の捏造と冤罪がなければ。
彼女の名は汚れなかった。
「橘晴美!」橘結衣の眼差しが刃のように鋭くなる。両手が橘晴美の首へ伸び、きつく締め上げた。
「どうして騙したの? 適合する提供者が見つかってたのに、なんで私に角膜を出させた? なんでこんなことまで仕組んだの!」
「嫌うなら嫌えばいい。でも、なんで騙すの? 私を嵌めるの? ねえ、どうして――!」
「晴美!」橘父母が慌てて橘結衣を引き剥がそうとする。
橘翔太が低く命じた。
「俺の妹を放せ」
橘元太が手を掴む。
「晴美に何かあったら、ただじゃ済まないぞ!」
橘界人は橘結衣の腹へ蹴りを叩き込んだ。
「さっさと離せ!」
人が絡み合い、場は瞬く間に混乱する。
だが橘結衣は、殺意を決めたかのように、陰鬱な顔で首を締め続けた。
――ドン!
鈍器が頭を割る、鈍い音。
少女の骨ばった手がふっと力を失い、橘晴美の首から離れる。腕は重く垂れ落ちた……。
橘結衣は血の海に倒れた。
兄たちは慌てて橘晴美へ駆け寄る。
「晴美、大丈夫か!」
「晴美、見せて。怪我してないか?」
「……」
橘由樹は顔面蒼白のまま立ち尽くしていた。手に握る石の置物には血がべったりと付いている。
橘結衣の後頭部から広がる血を見て、指が震え始めた。
「ど……どうしよう。橘結衣、もしかして……死んだ」
ただ……手を離させたかっただけなのに。
殺すつもりなんて、なかった。
橘礼子は床の上で動かない橘結衣を見下ろし、眉をひそめた。
「死んだなら、南川家の縁はもう使えないわね」
「由樹、心配はいらない」橘国政は淡々と言った。「正当防衛だ。あの子は狂ってる。あのままなら晴美が絞め殺されていた」
橘晴美は口元の笑みが漏れそうになるのを、そっと押し殺す。
橘結衣さえ死ねば、橘家の令嬢の座は誰にも脅かされない。
橘晴美は突然、声を上げて泣き崩れた。
「私が悪いの……私のせいで、こんなことに……うぅ……姉ちゃん、ごめんなさい……」
橘翔太は冷静だった。
「晴美、お前のせいじゃない。自分を責めるな」
橘元太は橘晴美の頭を撫で、ため息をつく。
「晴美、お前は優しすぎる」
「そうだ。殺されかけてるのを、見ていられるわけないだろ」
皆が橘晴美を慰める中、誰も知らない。
橘結衣は、まだ息があった。
意識だけが、執念深く残っている。
父と母、兄たちが橘晴美を囲み、慈しみ守る光景を見つめながら、橘結衣の目尻から血の涙が一筋落ちた。
そのとき、別荘の玄関が押し開けられた。
入口に、ひとりの男が硬直したように立っている。
――宮本景太。親友の兄。
宮本グループの社長。冷酷非情、辣腕で鳴らし、就任からたった2年で社内の人員整理を進め、地位を固めた、と噂される男。
京清市の名門である橘家でさえ、宮本家と交わる資格すらない。
彼と彼女は、雲泥の差だった。
宮本茜がいなければ、橘結衣が宮本景太のような人間に触れることはない。
――明日のお披露目パーティーには行くな。
耳の奥で、彼の声がよみがえる。
昨日の深夜、見知らぬ番号からの電話。宮本景太は言った。
「連中はお前を南川春輝に嫁がせるつもりだ。だったら、俺に嫁げ」
「俺は海外にいる。今から戻る。待ってろ」
短い三言。情報量だけが異様に重い。
当時は意味が分からなかった。今も、考える力は残っていない。
彼のほうを見ると、男の目に、骨まで蝕むような痛みと――怯えがあるように見えた。
もう限界だった。視界がじわじわ黒に染まる。
完全に意識が落ちる寸前、宮本景太が彼女の名を呼んだ。
震えるほど掠れた声で。
